2月の白い雪を見る度に、目に浮かぶ景色があります。
果てしない雪原に、青竹が1本、ぽーんと立っているのです。時折強風が吹き付け、あたりが白1色の異次元世界になりますが、それでも青竹は揺るぐことなく、誇り高く、そこに立ち続けているのです。
植村直己氏が、アラスカのマッキンリーの核心部にいよいよ上り始めるという時、そこに突き刺していった青竹です。
クレバスの危険が待ち受けていた麓の雪原部を抜け、これからが険しい上りになるあたりです。
いつ戻ってくるか分からない、しかし自分は必ずここに戻ってくるのだという確信のもとに、その目印として、突き刺していったものに違いありません。
1984年2月。マッキンリーの厳冬期単独初登頂という壮大な冒険に挑んだ植村さんですが、その青竹を自分で回収する日はとうとうきませんでした。デナリ峠上部のの悪魔の風に飛ばされたか、滑落したか。今も多くが謎に包まれています。
その青竹を、僕は見たわけではないのです。 当時、日刊スポーツ新聞社は、その植村氏と明大山岳部でザイル・パートナーだった中出水勲デスク(後スポーツ部長)を現地に派遣、捜索と記事報道に送り込みました。
「おい、後藤。今日は青竹を見つけたよ。雪原の中に、青竹が1本、ポツーンと立っていた。威張って立っていた。植村、きっと生きとるよ」。ある日、現地から、記者の先輩でもある中出水さんがやや興奮した口調で電話してきました。連日の努力にもかかわらず、悪天候もあってなかなか山そのものの捜索が始められなかったのですが、ようやく天候が回復した日のことでした。
その時、僕も心の中で、鮮明に雪原の青竹を見たのです。大自然の中で、まるで運命に抗するかのように、ほこらしく立ち続けていた植村さんの青竹。
去る1月26日、板橋区立文化会館で、同区にある「植村冒険館」設立15周年記念のシンポジウムが開かれました。
200人を超す来場者が詰め掛け、植村さんの最後の雄姿をビデオ取材した大谷映芳さん(元テレビ朝日ディレクター)が、マッキンレーに出発する植村さんの映像などを紹介しながら基調講演を行い、その後で元国立極地研究所所長の渡部興亞さん、リヤカーで世界を回った長勢忠志さん、MTBの冒険ツーリングなどで知られる安東浩正さんらが出席して、植村直己さんの冒険者としての再評価などを話し合うパネルトークが行われました。
植村冒険館としては「登山家のイメージが強い植村さんだが、原点はあくまで冒険家だった。アムンゼンやスコットと肩を並べる、偉大な冒険家としての植村さんと、その姿勢や熱い魂を、次に世代にもぜひ伝えてほしい」という願いを持ち続けています。
今は商業的な冒険がもてはやされたり、有名になることを前提として、あらかじめ「成功したらテレビに出て、本書いて、タレントとして活動して」といった大きなプロジェクトで「自分」を売り出すための冒険が、結果的には多くなってしまいました。
お金のかかることですから、ある程度は必要ですが、各氏とも言葉は異なるにせよ、「植村さんの場合は、自分が社会的に有名になろう、タレントとして発言しよう、などという気持ちはさらさらなかった。自分ではなく、自分が残す足跡で何かを語ろうとする人だった」といった、植村さんならではの孤高の精神を、あらためて強調されていた感じがします。
足跡で語る。
しかも植村さんが語りたかった足跡は、何も世界の高山や極点につけられた「栄光の足跡」ではなく、むしろそこに至るまでの平凡な、ごく日常的な足跡ではなかったかと、僕は思います。
幾多の冒険に挑みましたが、失敗も少なからずあったようです。
また、お金にからまねばならず、結果的に形の上では成功したけれど、自身としては納得のいかない冒険もあったようです。
でも植村さんの冒険はそのほとんどが基本的に手作りで、足らない部分を時間と手間で補う、実に「人間・植村」がにじみ出る冒険でした。
マッキンリーへ行くときも、最新機材やマスコミ絡みの大掛かりな資金という土台の上に立ってどんと乗り込んでいくようなことをせず、まず現地の人たちの生活そのものに溶け込み、現地の食事、現地の道具を使い、そこに「住む」ことから、冒険を始めました。
一歩一歩、から始めたのです。
世界の高峰に立つための体力作りも、同じように一歩一歩からでした。
それが植村方式でした。
その一歩一歩こそ、僕は植村さんが伝えたかった足跡だと思うのです。
あの青竹は、日本から持ち込んだもので、クレバスに落ち込むのを防ぐためのアイデアでした。長年の冒険からにじみ出たアイデアでした。あの青竹で、一歩一歩歩いていった、その究極の冒険者精神、スポーツからみれば究極のアマチュアリズムこそ、植村さんでした。
シンポジウムで、大谷さんが公開してくれた「マッキンレーにこれから挑む」ビデオに、植村さんが、両腰に青竹をくくりつけ、さも楽しげに雪原を歩いていく場面が移っていました。
僕が(見てもいないのに)ずっと思っていたのと全く変わりない、懐かしい場面でした。
植村さんは、まだアラスカのどこかにいるかもしれません。いないかもしれません。でも少なくとも、僕らの胸の中に、今も生きています。冒険を楽しみながら、そのための手作りの準備を楽しみながら、一歩一歩を楽しみながら。
偉業そのものも次の世代に伝えねばなりませんが、むしろ大切なのその過程たるあの一歩一歩、青竹の足跡ではないでしょうか。
またこれは植村さんの話のみならず、今の日本にとって(忘れられがちだが)重要な物の見方、考え方、生き方のすべての原点が、そこにあるのではと思えて、しかたありません。
植村さんは1941年2月12日に生まれました。
1984年、くしくも2月12日、マッキンレーの厳冬期単独初登頂に成功したとみられ、しかしその後行方がわかりません。今はヘリコプターが最後に雄姿を確認した2月16日を命日としています。享年44。4月、国民栄誉賞を受賞、記念館が設立されました。
植村冒険館(東京・板橋区) http://www.uemura-museum-tokyo.jp/
疲れたとき勇気をいっぱいもらえそうです。
果てしない雪原に、青竹が1本、ぽーんと立っているのです。時折強風が吹き付け、あたりが白1色の異次元世界になりますが、それでも青竹は揺るぐことなく、誇り高く、そこに立ち続けているのです。
植村直己氏が、アラスカのマッキンリーの核心部にいよいよ上り始めるという時、そこに突き刺していった青竹です。
クレバスの危険が待ち受けていた麓の雪原部を抜け、これからが険しい上りになるあたりです。
いつ戻ってくるか分からない、しかし自分は必ずここに戻ってくるのだという確信のもとに、その目印として、突き刺していったものに違いありません。
1984年2月。マッキンリーの厳冬期単独初登頂という壮大な冒険に挑んだ植村さんですが、その青竹を自分で回収する日はとうとうきませんでした。デナリ峠上部のの悪魔の風に飛ばされたか、滑落したか。今も多くが謎に包まれています。
その青竹を、僕は見たわけではないのです。 当時、日刊スポーツ新聞社は、その植村氏と明大山岳部でザイル・パートナーだった中出水勲デスク(後スポーツ部長)を現地に派遣、捜索と記事報道に送り込みました。
「おい、後藤。今日は青竹を見つけたよ。雪原の中に、青竹が1本、ポツーンと立っていた。威張って立っていた。植村、きっと生きとるよ」。ある日、現地から、記者の先輩でもある中出水さんがやや興奮した口調で電話してきました。連日の努力にもかかわらず、悪天候もあってなかなか山そのものの捜索が始められなかったのですが、ようやく天候が回復した日のことでした。
その時、僕も心の中で、鮮明に雪原の青竹を見たのです。大自然の中で、まるで運命に抗するかのように、ほこらしく立ち続けていた植村さんの青竹。
去る1月26日、板橋区立文化会館で、同区にある「植村冒険館」設立15周年記念のシンポジウムが開かれました。
200人を超す来場者が詰め掛け、植村さんの最後の雄姿をビデオ取材した大谷映芳さん(元テレビ朝日ディレクター)が、マッキンレーに出発する植村さんの映像などを紹介しながら基調講演を行い、その後で元国立極地研究所所長の渡部興亞さん、リヤカーで世界を回った長勢忠志さん、MTBの冒険ツーリングなどで知られる安東浩正さんらが出席して、植村直己さんの冒険者としての再評価などを話し合うパネルトークが行われました。
植村冒険館としては「登山家のイメージが強い植村さんだが、原点はあくまで冒険家だった。アムンゼンやスコットと肩を並べる、偉大な冒険家としての植村さんと、その姿勢や熱い魂を、次に世代にもぜひ伝えてほしい」という願いを持ち続けています。
今は商業的な冒険がもてはやされたり、有名になることを前提として、あらかじめ「成功したらテレビに出て、本書いて、タレントとして活動して」といった大きなプロジェクトで「自分」を売り出すための冒険が、結果的には多くなってしまいました。
お金のかかることですから、ある程度は必要ですが、各氏とも言葉は異なるにせよ、「植村さんの場合は、自分が社会的に有名になろう、タレントとして発言しよう、などという気持ちはさらさらなかった。自分ではなく、自分が残す足跡で何かを語ろうとする人だった」といった、植村さんならではの孤高の精神を、あらためて強調されていた感じがします。
足跡で語る。
しかも植村さんが語りたかった足跡は、何も世界の高山や極点につけられた「栄光の足跡」ではなく、むしろそこに至るまでの平凡な、ごく日常的な足跡ではなかったかと、僕は思います。
幾多の冒険に挑みましたが、失敗も少なからずあったようです。
また、お金にからまねばならず、結果的に形の上では成功したけれど、自身としては納得のいかない冒険もあったようです。
でも植村さんの冒険はそのほとんどが基本的に手作りで、足らない部分を時間と手間で補う、実に「人間・植村」がにじみ出る冒険でした。
マッキンリーへ行くときも、最新機材やマスコミ絡みの大掛かりな資金という土台の上に立ってどんと乗り込んでいくようなことをせず、まず現地の人たちの生活そのものに溶け込み、現地の食事、現地の道具を使い、そこに「住む」ことから、冒険を始めました。
一歩一歩、から始めたのです。
世界の高峰に立つための体力作りも、同じように一歩一歩からでした。
それが植村方式でした。
その一歩一歩こそ、僕は植村さんが伝えたかった足跡だと思うのです。
あの青竹は、日本から持ち込んだもので、クレバスに落ち込むのを防ぐためのアイデアでした。長年の冒険からにじみ出たアイデアでした。あの青竹で、一歩一歩歩いていった、その究極の冒険者精神、スポーツからみれば究極のアマチュアリズムこそ、植村さんでした。
シンポジウムで、大谷さんが公開してくれた「マッキンレーにこれから挑む」ビデオに、植村さんが、両腰に青竹をくくりつけ、さも楽しげに雪原を歩いていく場面が移っていました。
僕が(見てもいないのに)ずっと思っていたのと全く変わりない、懐かしい場面でした。
植村さんは、まだアラスカのどこかにいるかもしれません。いないかもしれません。でも少なくとも、僕らの胸の中に、今も生きています。冒険を楽しみながら、そのための手作りの準備を楽しみながら、一歩一歩を楽しみながら。
偉業そのものも次の世代に伝えねばなりませんが、むしろ大切なのその過程たるあの一歩一歩、青竹の足跡ではないでしょうか。
またこれは植村さんの話のみならず、今の日本にとって(忘れられがちだが)重要な物の見方、考え方、生き方のすべての原点が、そこにあるのではと思えて、しかたありません。
植村さんは1941年2月12日に生まれました。
1984年、くしくも2月12日、マッキンレーの厳冬期単独初登頂に成功したとみられ、しかしその後行方がわかりません。今はヘリコプターが最後に雄姿を確認した2月16日を命日としています。享年44。4月、国民栄誉賞を受賞、記念館が設立されました。
植村冒険館(東京・板橋区) http://www.uemura-museum-tokyo.jp/
疲れたとき勇気をいっぱいもらえそうです。
前から関心がありました栢木寛照さんの本「親が育てば子も育つ」に感銘しました。
仏教では、物やお金に恵まれていなくても、心さえあれば立派に布施(親切)ができると教えておられます。『雑宝蔵経』に説かれている「無財の七施」です。
○眼施
○和顔悦色施
○言辞施
○身施
○心施
○床座施
○房舎施
一つずつ、説明していきましょう。
第一の眼施は、優しく温かいまなざしで、周りの人々の心を明るくするよう努めることです。
「目は口よりも物を言う」とか、「目は心の鏡」ともいわれますが、人間の目ぐらい複雑な色合いを映し出すものはありません。その目にたたえられた和やかな光は、どんなにか人々を慰め、励ますことでしょう。
とくに過失を犯して悲愁に暮れている時などは、更生への愛撫となりましょう。
次の和顔悦色施とは、優しいほほえみをたたえて人に接することをいいます。
心からの美しい笑顔こそまさに人生の花。純粋無垢な笑顔に接する時、一瞬、人生の苦労を忘れ、生き甲斐さえ感じます。
笑顔は周囲全体を和ませ、トゲトゲしい対人関係をスムーズにするのです。
「主婦の笑顔は家庭の光」ともいわれます。女性の明るい笑顔が、一家の盛衰のカギをも握っているといえましょう。
第三の言辞施は、優しい言葉をかけるよう努めること。
ある夏、小学校の女の子が泳げるようになった喜びを、新聞に投書しました。「泳げると人魚姫みたいになれるよ」の母親の励ましがあったから、とそこには書かれていました。
親の一言が、小さな心に奮発心や夢を芽生えさせたのでしょう。チョットした言葉や激励が、相手を勇気づけたり、慰めたりするのです。
ロシアの小説家、ツルゲーネフがある時、玄関先に立った乞食に何一つ与えるものがなかったので、済まないの思いいっぱいから、乞食の手を握り締めて、「兄弟!!」と涙ぐみました。乞食はあとで、「永年乞食をしている間、種々のものをもらったが、あの時ほどうれしいことはなかった」と述懐したといいます。
心からの優しい言葉はどんなに相手を喜ばせるか、計り知れません。
第四の身施は肉体を使って人のため、社会のために働くことです。いわゆる無料奉仕することです。
次に心施とは、心からの感謝の言葉を述べるようにすることです。
「ありがとう」
「済みません」
たったの5字の音声ですが、この世の中をどんなにか住みよく明るくするかしれません。
第六の床座施は、場所や席を譲り合う親切をいいます。乗り物の座席の取り合いから、権力の座の争奪に至るまで、今日の世相を見ても、いかに床座施が必要かが知らされるではありませんか。少しでも床座施があれば、この世はどんなに素晴らしく気持ちよく変わることでしょう。
最後の房舎施は、求める人、訪ねてくる人があれば一宿一飯の施しを与え、その労をねぎらう親切をいいます。
以上のように私たちに親切をしようという心さえあれば、どんな人でもいつでもどこでもできる善行が、布施行であることがお分かりでしょう。
善い行いをすれば、必ず善い結果となって自分に返ってきます。ちょっとした心掛けが、思わぬ大きな幸せとなるのです。ぜひ、実行してみてください。 親鸞会より
仏教では、物やお金に恵まれていなくても、心さえあれば立派に布施(親切)ができると教えておられます。『雑宝蔵経』に説かれている「無財の七施」です。
○眼施
○和顔悦色施
○言辞施
○身施
○心施
○床座施
○房舎施
一つずつ、説明していきましょう。
第一の眼施は、優しく温かいまなざしで、周りの人々の心を明るくするよう努めることです。
「目は口よりも物を言う」とか、「目は心の鏡」ともいわれますが、人間の目ぐらい複雑な色合いを映し出すものはありません。その目にたたえられた和やかな光は、どんなにか人々を慰め、励ますことでしょう。
とくに過失を犯して悲愁に暮れている時などは、更生への愛撫となりましょう。
次の和顔悦色施とは、優しいほほえみをたたえて人に接することをいいます。
心からの美しい笑顔こそまさに人生の花。純粋無垢な笑顔に接する時、一瞬、人生の苦労を忘れ、生き甲斐さえ感じます。
笑顔は周囲全体を和ませ、トゲトゲしい対人関係をスムーズにするのです。
「主婦の笑顔は家庭の光」ともいわれます。女性の明るい笑顔が、一家の盛衰のカギをも握っているといえましょう。
第三の言辞施は、優しい言葉をかけるよう努めること。
ある夏、小学校の女の子が泳げるようになった喜びを、新聞に投書しました。「泳げると人魚姫みたいになれるよ」の母親の励ましがあったから、とそこには書かれていました。
親の一言が、小さな心に奮発心や夢を芽生えさせたのでしょう。チョットした言葉や激励が、相手を勇気づけたり、慰めたりするのです。
ロシアの小説家、ツルゲーネフがある時、玄関先に立った乞食に何一つ与えるものがなかったので、済まないの思いいっぱいから、乞食の手を握り締めて、「兄弟!!」と涙ぐみました。乞食はあとで、「永年乞食をしている間、種々のものをもらったが、あの時ほどうれしいことはなかった」と述懐したといいます。
心からの優しい言葉はどんなに相手を喜ばせるか、計り知れません。
第四の身施は肉体を使って人のため、社会のために働くことです。いわゆる無料奉仕することです。
次に心施とは、心からの感謝の言葉を述べるようにすることです。
「ありがとう」
「済みません」
たったの5字の音声ですが、この世の中をどんなにか住みよく明るくするかしれません。
第六の床座施は、場所や席を譲り合う親切をいいます。乗り物の座席の取り合いから、権力の座の争奪に至るまで、今日の世相を見ても、いかに床座施が必要かが知らされるではありませんか。少しでも床座施があれば、この世はどんなに素晴らしく気持ちよく変わることでしょう。
最後の房舎施は、求める人、訪ねてくる人があれば一宿一飯の施しを与え、その労をねぎらう親切をいいます。
以上のように私たちに親切をしようという心さえあれば、どんな人でもいつでもどこでもできる善行が、布施行であることがお分かりでしょう。
善い行いをすれば、必ず善い結果となって自分に返ってきます。ちょっとした心掛けが、思わぬ大きな幸せとなるのです。ぜひ、実行してみてください。 親鸞会より
これまで、世界に誇る日本の手仕事を数々紹介してきた知っとこ!その熟練の技とこだわりには、いつも驚かされます。
今回は「冬にこそ嬉しいもの」を手がけるモノ作りのプロたちを大特集!
素材の味を最大限に活かす凄い鍋、それを作り上げる熟練の技。
今、大ヒット中のあのおしゃれな商品、部屋にも心にも潤いを与えてくれる秘密とは?
暖かく、安らかな眠りのパートナーが、幻と呼ばれる訳とは?
寒い時こそありがたい!冬を彩る匠たちのこと、知っとこ!
【冬を彩る匠の技(1)一生ものの、素材の味を最大限に活かす手作りの銅鍋】
寒い季節の強い味方、鍋。鍋の素材にもこだわってみてはいかがでしょう?
土鍋に鉄鍋、アルミ鍋、数ある中で今回、知っとこ!が注目したのが、銅のお鍋。熱伝導率や保温に優れるといわれる銅のお鍋、その工程すべてを手作りで行う工房が、大阪にあります。
姫野工作所、広い作業場に職人は2人だけ。この道一筋60年の姫野直幸さんと息子さん。
鍋に最適といわれる銅鍋は、他の金属に比べ、まんべんなく熱が行き渡り、鍋の表面全体が沸き立つんです。すばやく全体に火が通ることで、食材の旨みを封じ込めることが出来るんだそう。更に一旦煮立てば、ほんの少しの火力でも沸き続け、燃料の節約にもなります。
そんな嬉しい銅の鍋も、最初は1枚の板。これを鍋の形になるよう、切り取っていきます。全くの手作業、少しの狂いもなく、丸いきれいな銅板が切り出されます。それをバーナーとコンロで熱します。「焼きなまし」と呼ばれる工程で銅をやわらかくするんだそう。
そしていよいよ形を作っていくんですが…なんと、木の切り株が作業台。その作業台の上に板を載せ、切り株の窪みに沿って叩いて、鍋の縁を徐々に起こしていきます。こうして、焼いては起こし、焼いては起こしを、都合5回も繰り返し、やっと鍋らしい形になるんだとか。
ちなみに、こちらの工具類はすべて手作り。鍋叩き専門の工具、なんて一般には売ってませんものね。
大体の形が出来上がったら…そこからが真骨頂、鍋の表面に金槌で、いわゆる
「槌目(つちめ)」を入れていきます。中心から花が咲くような、きれいな模様が刻まれます。まるで精密機械で打っているかのような正確さ。実はこの作業、大事な意味があるんです。叩くことによって銅が鍛えられ、丈夫で長持ち、な鍋になるんです。叩く前なら簡単に手で曲がる銅の板が、叩いた後にはびくともしません。
機械で大量生産する鍋は、模様をプレスしているだけのものが多く、強度という面では効果がないんだとか。手作りでしか出来ない最高の鍋、リズミカルで規則正しい槌音は使い手のことを一番に考えた手間を惜しまぬ職人の仕事です。
隙間なく目が入った銅の鍋、鍋一つに5千回以上の槌がふるわれました。
プロの料理人からも絶大な信頼を寄せられている、手打ちの調理道具。
昨日より今日、今日より明日、姫野の手打ち鍋は常に前進あるのみです。
●姫野工作所(銅鍋)
電話:0729-49-5174
※詳しくは姫野工作所のホームページへ
【冬を彩る匠の技(2)売り切れ続出の大ヒット加湿器】
この煙突型の加湿器は、おしゃれなライフスタイルを提案するイデアから発売されている、その名も「チムニースリー」。売り切れ続出の大ヒット商品だそうです。機能もさることながら、ユニークなのは、何といってもデザイン。
そのデザイナーを訪ねて事務所に伺いました。風情ある下町の一角、思いのほかこじんまりしています。
たった一人の事務所で孤軍奮闘しているのは、石黒猛さん。高校卒業後、欧米で修行を重ねた今注目のアーティスト。様々な展覧会にも作品を提供しています。チムニー開発のきっかけもかつての、青空に向かって巨大な輪を吹き上げる雄大な作品。それはアートとしての作品ですが、その輪を加湿器に出来ないかと思いついたのがきっかけなんだそう。
石黒さんは他にも…
葉っぱをそのままお皿にした作品や、ニューヨーク近代美術館に永久保存されている米で作った塩とコショウ入れ、などなど…
石黒さんの発想は実にユニーク。
たとえば、室内を常に漂い続ける風船。センサーとプロペラが内蔵されており、床などに近づけば離れていく仕組み。
また、お香で作った模型。火をつけ、灰になることではじめて作品になります。
40分ほどかけてじっくりと燃えていきます。
他にも、電磁波をセミの声に変える作品や、座る2人の距離感で音程が変わるラブソファなど…
そんな石黒作品には、ある共通点があります。使い方も自由なら、作るプロセスもまた自由。
部品を見ながら、さあ、どんなものを作ろうかと吟味する石黒さんにとっての至福のとき。いろんな部品が揃った事務所は、いわば偶然がいっぱい詰まったおもちゃ箱。そんな偶然から生まれたチムニーは実用だけではない魅力があります。
●イデアフレイムス(加湿器)
電話:03-5410-1270
【冬を彩る匠の技(3)1年待ち!名人が作る幻の布団】
安らかな眠りにいざなってくれるのが、冬に嬉しい綿のふとん。
最高の布団作り名人が作る幻の布団とは…
完全オーダーメイド、注文から1年待ちというこだわりの布団を作り続ける名古屋・丹羽ふとん店の木綿布団。
品質を落としたくないからと、職人は4代目の正行さんと、息子さんの2人だけ、総理大臣賞も受賞した確かな腕で作る布団、大量生産が出来ないため、どうしても待ってもらうしかないんだそうです。
作るのは木綿の布団のみ。木綿の布団は羽毛よりも暖かいと、丹羽さんは言います。1枚の敷きふとんに使う綿(わた)は6,5キロ、機械生産のものの1,5倍の量。
まずは綿を入れる生地の上に絹糸をうすく敷いていきます。打ち直しの時に困らないようにとの、昔からの知恵です。そしていよいよ綿を載せていきます。
後で折り返すことを考えて、生地から大きくはみ出して並べます。無造作に見えますが、最終形を頭に叩き込んだ上の計算。余分な部分は手で切り取ります。
そして布の大きさに合わせて折りたたんでいきます。このときの丹羽さんのこだわりポイントが、綿の四隅の角をピンと尖らせること。布団の隅々まで綿を行き渡らせるための配慮。
更に、丹羽さんならではの工夫が、寝る時の位置や、将来の沈み具合を考えて、真ん中に綿を高く積んでおくこと。
そんなこだわりの布団職人・丹羽さんは、布団の研究に打ち込み、今では綿作りから手がけています。注文の内容によって、綿の種類や配合を変えて、最適な布団になるよう作っていくのです。
そこまでするのは、オーダーに完璧に応えたい、との思いから。手仕事にこだわる布団職人の心意気です。
きれいに積まれた綿を、布の中に収めていきます。6,5キロのボリュームを、一気に押し込みます。まんべんなく綿が行き渡るよう均していきます、もちろん、角まできっちりと。
全体に綿が行き渡ったら、縫い合わせて閉じていきます1枚仕上げるのにおよそ3時間、思った布団ができた時には思わず笑みがこぼれます。
細部までこだわりぬかれた、木綿の布団。その暖かさに一度包まれてしまえば、この布団でないと駄目だ、というお客が大勢いるのも頷けます。親子2世代で丹羽布団のファン、という方も多いんだとか。
そんな丹羽さん、忙しい合間を縫って海外に出かけることも多いのですが、その目的もやっぱり布団。観光地にはわき目も振らず、各国の布団事情を調べるのが常だとか。ほんとに布団がお好きなんですねぇ。
寝ても覚めても布団、布団。布団職人・丹羽さんの夢は、綿の栽培から自分で手がけ、すべて自家製の手作り布団を作ることなんだとか…
●丹羽ふとん店(木綿布団)
電話:052-671-6473
※詳しくは丹羽ふとん店のホームページへ
今回伺った匠たち、それぞれ誇りとこだわりを持って、仕事に取り組んでいます。そして何よりもまして感じたのが、自分の仕事へのゆるぎない愛情。冬の寒さを忘れるほどの熱い思い。素敵な職人さんとの出会いでした。
今回は「冬にこそ嬉しいもの」を手がけるモノ作りのプロたちを大特集!
素材の味を最大限に活かす凄い鍋、それを作り上げる熟練の技。
今、大ヒット中のあのおしゃれな商品、部屋にも心にも潤いを与えてくれる秘密とは?
暖かく、安らかな眠りのパートナーが、幻と呼ばれる訳とは?
寒い時こそありがたい!冬を彩る匠たちのこと、知っとこ!
【冬を彩る匠の技(1)一生ものの、素材の味を最大限に活かす手作りの銅鍋】
寒い季節の強い味方、鍋。鍋の素材にもこだわってみてはいかがでしょう?
土鍋に鉄鍋、アルミ鍋、数ある中で今回、知っとこ!が注目したのが、銅のお鍋。熱伝導率や保温に優れるといわれる銅のお鍋、その工程すべてを手作りで行う工房が、大阪にあります。
姫野工作所、広い作業場に職人は2人だけ。この道一筋60年の姫野直幸さんと息子さん。
鍋に最適といわれる銅鍋は、他の金属に比べ、まんべんなく熱が行き渡り、鍋の表面全体が沸き立つんです。すばやく全体に火が通ることで、食材の旨みを封じ込めることが出来るんだそう。更に一旦煮立てば、ほんの少しの火力でも沸き続け、燃料の節約にもなります。
そんな嬉しい銅の鍋も、最初は1枚の板。これを鍋の形になるよう、切り取っていきます。全くの手作業、少しの狂いもなく、丸いきれいな銅板が切り出されます。それをバーナーとコンロで熱します。「焼きなまし」と呼ばれる工程で銅をやわらかくするんだそう。
そしていよいよ形を作っていくんですが…なんと、木の切り株が作業台。その作業台の上に板を載せ、切り株の窪みに沿って叩いて、鍋の縁を徐々に起こしていきます。こうして、焼いては起こし、焼いては起こしを、都合5回も繰り返し、やっと鍋らしい形になるんだとか。
ちなみに、こちらの工具類はすべて手作り。鍋叩き専門の工具、なんて一般には売ってませんものね。
大体の形が出来上がったら…そこからが真骨頂、鍋の表面に金槌で、いわゆる
「槌目(つちめ)」を入れていきます。中心から花が咲くような、きれいな模様が刻まれます。まるで精密機械で打っているかのような正確さ。実はこの作業、大事な意味があるんです。叩くことによって銅が鍛えられ、丈夫で長持ち、な鍋になるんです。叩く前なら簡単に手で曲がる銅の板が、叩いた後にはびくともしません。
機械で大量生産する鍋は、模様をプレスしているだけのものが多く、強度という面では効果がないんだとか。手作りでしか出来ない最高の鍋、リズミカルで規則正しい槌音は使い手のことを一番に考えた手間を惜しまぬ職人の仕事です。
隙間なく目が入った銅の鍋、鍋一つに5千回以上の槌がふるわれました。
プロの料理人からも絶大な信頼を寄せられている、手打ちの調理道具。
昨日より今日、今日より明日、姫野の手打ち鍋は常に前進あるのみです。
●姫野工作所(銅鍋)
電話:0729-49-5174
※詳しくは姫野工作所のホームページへ
【冬を彩る匠の技(2)売り切れ続出の大ヒット加湿器】
この煙突型の加湿器は、おしゃれなライフスタイルを提案するイデアから発売されている、その名も「チムニースリー」。売り切れ続出の大ヒット商品だそうです。機能もさることながら、ユニークなのは、何といってもデザイン。
そのデザイナーを訪ねて事務所に伺いました。風情ある下町の一角、思いのほかこじんまりしています。
たった一人の事務所で孤軍奮闘しているのは、石黒猛さん。高校卒業後、欧米で修行を重ねた今注目のアーティスト。様々な展覧会にも作品を提供しています。チムニー開発のきっかけもかつての、青空に向かって巨大な輪を吹き上げる雄大な作品。それはアートとしての作品ですが、その輪を加湿器に出来ないかと思いついたのがきっかけなんだそう。
石黒さんは他にも…
葉っぱをそのままお皿にした作品や、ニューヨーク近代美術館に永久保存されている米で作った塩とコショウ入れ、などなど…
石黒さんの発想は実にユニーク。
たとえば、室内を常に漂い続ける風船。センサーとプロペラが内蔵されており、床などに近づけば離れていく仕組み。
また、お香で作った模型。火をつけ、灰になることではじめて作品になります。
40分ほどかけてじっくりと燃えていきます。
他にも、電磁波をセミの声に変える作品や、座る2人の距離感で音程が変わるラブソファなど…
そんな石黒作品には、ある共通点があります。使い方も自由なら、作るプロセスもまた自由。
部品を見ながら、さあ、どんなものを作ろうかと吟味する石黒さんにとっての至福のとき。いろんな部品が揃った事務所は、いわば偶然がいっぱい詰まったおもちゃ箱。そんな偶然から生まれたチムニーは実用だけではない魅力があります。
●イデアフレイムス(加湿器)
電話:03-5410-1270
【冬を彩る匠の技(3)1年待ち!名人が作る幻の布団】
安らかな眠りにいざなってくれるのが、冬に嬉しい綿のふとん。
最高の布団作り名人が作る幻の布団とは…
完全オーダーメイド、注文から1年待ちというこだわりの布団を作り続ける名古屋・丹羽ふとん店の木綿布団。
品質を落としたくないからと、職人は4代目の正行さんと、息子さんの2人だけ、総理大臣賞も受賞した確かな腕で作る布団、大量生産が出来ないため、どうしても待ってもらうしかないんだそうです。
作るのは木綿の布団のみ。木綿の布団は羽毛よりも暖かいと、丹羽さんは言います。1枚の敷きふとんに使う綿(わた)は6,5キロ、機械生産のものの1,5倍の量。
まずは綿を入れる生地の上に絹糸をうすく敷いていきます。打ち直しの時に困らないようにとの、昔からの知恵です。そしていよいよ綿を載せていきます。
後で折り返すことを考えて、生地から大きくはみ出して並べます。無造作に見えますが、最終形を頭に叩き込んだ上の計算。余分な部分は手で切り取ります。
そして布の大きさに合わせて折りたたんでいきます。このときの丹羽さんのこだわりポイントが、綿の四隅の角をピンと尖らせること。布団の隅々まで綿を行き渡らせるための配慮。
更に、丹羽さんならではの工夫が、寝る時の位置や、将来の沈み具合を考えて、真ん中に綿を高く積んでおくこと。
そんなこだわりの布団職人・丹羽さんは、布団の研究に打ち込み、今では綿作りから手がけています。注文の内容によって、綿の種類や配合を変えて、最適な布団になるよう作っていくのです。
そこまでするのは、オーダーに完璧に応えたい、との思いから。手仕事にこだわる布団職人の心意気です。
きれいに積まれた綿を、布の中に収めていきます。6,5キロのボリュームを、一気に押し込みます。まんべんなく綿が行き渡るよう均していきます、もちろん、角まできっちりと。
全体に綿が行き渡ったら、縫い合わせて閉じていきます1枚仕上げるのにおよそ3時間、思った布団ができた時には思わず笑みがこぼれます。
細部までこだわりぬかれた、木綿の布団。その暖かさに一度包まれてしまえば、この布団でないと駄目だ、というお客が大勢いるのも頷けます。親子2世代で丹羽布団のファン、という方も多いんだとか。
そんな丹羽さん、忙しい合間を縫って海外に出かけることも多いのですが、その目的もやっぱり布団。観光地にはわき目も振らず、各国の布団事情を調べるのが常だとか。ほんとに布団がお好きなんですねぇ。
寝ても覚めても布団、布団。布団職人・丹羽さんの夢は、綿の栽培から自分で手がけ、すべて自家製の手作り布団を作ることなんだとか…
●丹羽ふとん店(木綿布団)
電話:052-671-6473
※詳しくは丹羽ふとん店のホームページへ
今回伺った匠たち、それぞれ誇りとこだわりを持って、仕事に取り組んでいます。そして何よりもまして感じたのが、自分の仕事へのゆるぎない愛情。冬の寒さを忘れるほどの熱い思い。素敵な職人さんとの出会いでした。
ロイス・カーフさん
上京区室町通出水上ルの京都YWCAでは、衣服や雑貨などを販売するバザーが30年以上続いている。「こっちが男物であちらが女物ね」。服などが並ぶ会場に、米国出身のロイス・カーフさんの滑らかな日本語が響く。
1962年から京都で暮らす。当時は子ども服を買いたくても背幅が広く手足が短い日本人向けのものばかり。外国人の母親3人で服を交換し始めたのがバザーのきっかけだ。
初めは国際学校の教室を使っていたが品数が増えて手狭に。75年から京都YWCAの一室を借りている。外国人中心だった客層がいまではほとんど日本人になった。「リサイクルの精神が広まった証拠でしょう」と笑顔で話す。
終戦から10年後の55年、宣教師として米国人の夫と一緒に船で横浜港に着いた。「外人だ」と子どもたちに指さされたことを今でも覚えている。せっけんのような味がするチーズなど、当時は手に入る食材の質は低く、毎月のように荷物を米国から送ってもらっていた。でも、いつもやさしく接してくれる日本人の温かい心が好きだった。この国を故郷にしようと思った。
バザーは毎月第1、3土曜日の月2回の開催。ここ10年は同じ顔ぶれの女性12人で準備・運営にあたっている。カーフさんは「みんな一緒に年をとったのよ」と笑う。少しでも長く、この時間が続けばいいと願っている。
ほっとしてこの日本に生まれてよかったと・・・
今度、行ってきます。
上京区室町通出水上ルの京都YWCAでは、衣服や雑貨などを販売するバザーが30年以上続いている。「こっちが男物であちらが女物ね」。服などが並ぶ会場に、米国出身のロイス・カーフさんの滑らかな日本語が響く。
1962年から京都で暮らす。当時は子ども服を買いたくても背幅が広く手足が短い日本人向けのものばかり。外国人の母親3人で服を交換し始めたのがバザーのきっかけだ。
初めは国際学校の教室を使っていたが品数が増えて手狭に。75年から京都YWCAの一室を借りている。外国人中心だった客層がいまではほとんど日本人になった。「リサイクルの精神が広まった証拠でしょう」と笑顔で話す。
終戦から10年後の55年、宣教師として米国人の夫と一緒に船で横浜港に着いた。「外人だ」と子どもたちに指さされたことを今でも覚えている。せっけんのような味がするチーズなど、当時は手に入る食材の質は低く、毎月のように荷物を米国から送ってもらっていた。でも、いつもやさしく接してくれる日本人の温かい心が好きだった。この国を故郷にしようと思った。
バザーは毎月第1、3土曜日の月2回の開催。ここ10年は同じ顔ぶれの女性12人で準備・運営にあたっている。カーフさんは「みんな一緒に年をとったのよ」と笑う。少しでも長く、この時間が続けばいいと願っている。
ほっとしてこの日本に生まれてよかったと・・・
今度、行ってきます。
親鸞ーしんらんーさんは、「闇」すなわち世間なり、「明」すなわち出世なり。「闇」はすなわち無明なり、「明」はすなわち智明なりと記されています。
世間とは、社会的な関係を生きることです。この社会的な関係の中で、苦悩し迷い続けています。闇とは自分のことも、他人のことも信じていけず不安だらけの状態です。親鸞さんは、この闇を破る生き方を願っています。
明るいという字は、日と月が隣り合わせにあります。まるで私たちの人生を教えてくれているようです。月は自分の力では明かりを出す事はできません。また暗くなっても太陽の明かりをいただきながら自分の出番を待っています。
太陽のようにサンサンと燃え盛る人生もあります。月のように暗い中ぽつんと生きる人生もあります。両方が私なのです。本当に明るい人とは、暗きものも明るきものも同時に見ていける人なのでしょう。
川村妙慶の日替わり法話
つい読みたくなる日替わり法話が有りました、とても心落ち着き大きくなった気がします。
世間とは、社会的な関係を生きることです。この社会的な関係の中で、苦悩し迷い続けています。闇とは自分のことも、他人のことも信じていけず不安だらけの状態です。親鸞さんは、この闇を破る生き方を願っています。
明るいという字は、日と月が隣り合わせにあります。まるで私たちの人生を教えてくれているようです。月は自分の力では明かりを出す事はできません。また暗くなっても太陽の明かりをいただきながら自分の出番を待っています。
太陽のようにサンサンと燃え盛る人生もあります。月のように暗い中ぽつんと生きる人生もあります。両方が私なのです。本当に明るい人とは、暗きものも明るきものも同時に見ていける人なのでしょう。
川村妙慶の日替わり法話
つい読みたくなる日替わり法話が有りました、とても心落ち着き大きくなった気がします。
いまは核家族というのが当たり前になっていますが、本当はサザエさん一家のように、三世代一緒に住むような家庭が理想なんじゃないかと思うんです。それがちょうどいい温度で出されるお茶の味のように、視聴者の方々の心にすっとしみ込んでいくんでしょうね。
じつはあの家族、ある地点で足踏みをしているんです。私たちのように、生活が変わっていきませんから。ほら、いまだに黒電話を使っていますし(笑)。ほかにもメダカがすくえる川がすぐ近所に流れているし、小さな子どもが一人で三輪車を乗り回してる。そんな生活環境は、いまではちょっと見当たりません。クルマも持ってないし、二階もない平屋建ての中で三世代同居。そしてなにより、専業主婦が二人もいるんですよね。ちゃんと家の中で子どもを育てている。いまだったらほとんどの場合、保育施設に預けちゃうじゃないですか。そういう理想的な家庭のあり方が、あそこには描かれているんです。あらゆる意味で自給率の高い家庭。それを皆さん、求めているんじゃないかと思います。
そういえば、カツオはテストの点数があまり芳しくありませんよね。でもそれは、優先順位がいまの子どもたちとは違っているからです。一生懸命、友達と遊んでいるから、テストで点が取れない。そういう情熱を勉強に向けたらもっといい点数が取れるんでしょうけれども、それをやらないのがカツオの偉いところ。でも本来、子どもはそうあるべきですよね。いまは100点主義社会になっちゃっていますけれども、カツオのように遊びに夢中になることって、私はおおいに結構だと思っているんです。いずれにしてもサザエさん一家は、いつまでもあのままでいてほしいですよね。
言葉には温度があるんです。
だから、相手のことを考えて適温で渡してあげることが必要。
山形県の中学校から講演の依頼があった時のことです。ご父兄の方々も参加されていたせいか、生徒の皆さんは大声を出したり、体育館の中を駆け回ったりして、はしゃいでる様子でした。そこで普通だと先生方が「静かにしろ!」と怒鳴りつけたり「はい、全員注目!」なんて叱りつけるところだったんでしょうね。ところが、その学校の先生方はいざ講演の時間になると、生徒たちに向かって温かい言葉で語りかけていました。
「さあみんな、みんながいちばん静かだと思う雰囲気を作ってみようか。今日は東京からマスオさんの声優さんがわざわざ来てくれて、みんなに大事な話をしてくれるんだよ。だから、ちょっと静かな雰囲気を作ってみようか……おぉ、できたみたいだな。みんな、ありがとう」
生徒と先生方が本当にいい関係を築いてる学校なんだなって、びっくりしました。もしかしたら私の話は退屈だったかもしれませんが、それでも講演が終わると生徒さんから「また来てくださいね」「お仕事頑張ってくださいね」と、声をかけてくれたんです。そして最後に「お礼に歌わせてください」と言われて、突然、生徒全員が立ち上がったんです。曲は『故郷』でした。
「兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川――」
あの歌詞がこんなに心に響くものだなんて、初めて知りました。生徒さんたちの伸びやかな表情と澄んだ歌声。それと前の詩の終わりにかぶせるようにして次の詩が始まって……本当に素晴らしい合唱で、私も思わず涙がこぼれました。 増岡 弘さん
今、本当に若者からシニアまで昭和ブ−ムに嵌っています、なぜなのか やはり人間は心暖まる事に憧れを持っているのではないでしょうか。
じつはあの家族、ある地点で足踏みをしているんです。私たちのように、生活が変わっていきませんから。ほら、いまだに黒電話を使っていますし(笑)。ほかにもメダカがすくえる川がすぐ近所に流れているし、小さな子どもが一人で三輪車を乗り回してる。そんな生活環境は、いまではちょっと見当たりません。クルマも持ってないし、二階もない平屋建ての中で三世代同居。そしてなにより、専業主婦が二人もいるんですよね。ちゃんと家の中で子どもを育てている。いまだったらほとんどの場合、保育施設に預けちゃうじゃないですか。そういう理想的な家庭のあり方が、あそこには描かれているんです。あらゆる意味で自給率の高い家庭。それを皆さん、求めているんじゃないかと思います。
そういえば、カツオはテストの点数があまり芳しくありませんよね。でもそれは、優先順位がいまの子どもたちとは違っているからです。一生懸命、友達と遊んでいるから、テストで点が取れない。そういう情熱を勉強に向けたらもっといい点数が取れるんでしょうけれども、それをやらないのがカツオの偉いところ。でも本来、子どもはそうあるべきですよね。いまは100点主義社会になっちゃっていますけれども、カツオのように遊びに夢中になることって、私はおおいに結構だと思っているんです。いずれにしてもサザエさん一家は、いつまでもあのままでいてほしいですよね。
言葉には温度があるんです。
だから、相手のことを考えて適温で渡してあげることが必要。
山形県の中学校から講演の依頼があった時のことです。ご父兄の方々も参加されていたせいか、生徒の皆さんは大声を出したり、体育館の中を駆け回ったりして、はしゃいでる様子でした。そこで普通だと先生方が「静かにしろ!」と怒鳴りつけたり「はい、全員注目!」なんて叱りつけるところだったんでしょうね。ところが、その学校の先生方はいざ講演の時間になると、生徒たちに向かって温かい言葉で語りかけていました。
「さあみんな、みんながいちばん静かだと思う雰囲気を作ってみようか。今日は東京からマスオさんの声優さんがわざわざ来てくれて、みんなに大事な話をしてくれるんだよ。だから、ちょっと静かな雰囲気を作ってみようか……おぉ、できたみたいだな。みんな、ありがとう」
生徒と先生方が本当にいい関係を築いてる学校なんだなって、びっくりしました。もしかしたら私の話は退屈だったかもしれませんが、それでも講演が終わると生徒さんから「また来てくださいね」「お仕事頑張ってくださいね」と、声をかけてくれたんです。そして最後に「お礼に歌わせてください」と言われて、突然、生徒全員が立ち上がったんです。曲は『故郷』でした。
「兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川――」
あの歌詞がこんなに心に響くものだなんて、初めて知りました。生徒さんたちの伸びやかな表情と澄んだ歌声。それと前の詩の終わりにかぶせるようにして次の詩が始まって……本当に素晴らしい合唱で、私も思わず涙がこぼれました。 増岡 弘さん
今、本当に若者からシニアまで昭和ブ−ムに嵌っています、なぜなのか やはり人間は心暖まる事に憧れを持っているのではないでしょうか。
発声の専門家Carol Fleming博士 より ちょっとしたことに気をつけるだけでぐっと話の印象が変わってきますよね。何を目的にするかによって次の5つの話し方をマスターしてみるのもいいですね。では下記に簡単にご紹介。
* 聡明な印象を与える話し方
適切な言葉を選ぶために少しゆっくりめに喋ること。そうすると思慮深いという印象を与えます。
* 力強い印象を与える話し方
短く、簡潔でわかりやすい文を心がけましょう。真剣にそう思っているのだ、という気概を示しましょう。余計な接続詞や形容詞、副詞などは使わないようにしましょう。
* 上品な印象を与える話し方
ぶっきらぼうに「はい」「いいえ」とだけ答えないようにしましょう。もう一言だけ付け加えることによって印象はがらりと変わります。たとえば「いいえ。私は見てないわ。」、「はい。私は彼女のことを知っていますよ。」といった言い回しは上品な印象を与えますよ。
* はっきりした人だ、という印象を与える話し方
単語の最後の音を力強く発音するようにしましょう。そして、その勢いを次の単語の発音にも使いましょう (これは英語の場合なので、日本語では少し異なるかも知れませんね)。
* 自信に溢れた印象を与える話し方
背筋を伸ばしましょう。まるで王冠をかぶっている自分をイメージしましょう。また、動くときに腕や足を左右にぶらぶらさせないようにしましょう。ひじとひざは常に体の中心から離れすぎないようにしましょう。(POP POP)
たいへん勉強になりました、私自身も話し方が下手なので・・
* 聡明な印象を与える話し方
適切な言葉を選ぶために少しゆっくりめに喋ること。そうすると思慮深いという印象を与えます。
* 力強い印象を与える話し方
短く、簡潔でわかりやすい文を心がけましょう。真剣にそう思っているのだ、という気概を示しましょう。余計な接続詞や形容詞、副詞などは使わないようにしましょう。
* 上品な印象を与える話し方
ぶっきらぼうに「はい」「いいえ」とだけ答えないようにしましょう。もう一言だけ付け加えることによって印象はがらりと変わります。たとえば「いいえ。私は見てないわ。」、「はい。私は彼女のことを知っていますよ。」といった言い回しは上品な印象を与えますよ。
* はっきりした人だ、という印象を与える話し方
単語の最後の音を力強く発音するようにしましょう。そして、その勢いを次の単語の発音にも使いましょう (これは英語の場合なので、日本語では少し異なるかも知れませんね)。
* 自信に溢れた印象を与える話し方
背筋を伸ばしましょう。まるで王冠をかぶっている自分をイメージしましょう。また、動くときに腕や足を左右にぶらぶらさせないようにしましょう。ひじとひざは常に体の中心から離れすぎないようにしましょう。(POP POP)
たいへん勉強になりました、私自身も話し方が下手なので・・













